お茶の効用を使って出世した石田三成

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気が利く人は、キレるトップに目をかけられます。
お茶で気が利くことをアピールした人、それが石田三成です。

緑茶

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三献茶の効用

「偉人達の健康診断」今回は石田三成に迫ります。

石田三成は、かなり嫌われ者のイメージが
ありましたが、頭の切れる人なのです。
そして秀吉オンリーラブだったんですね。
家康のように「自分が天下を取る」なんて欲出しません。

三成は地侍の次男で、身分としては低いので
秀吉にも憧れに似たものがあったのでしょう。
秀吉も身分低いところからの大出世を成し遂げた人です。

そんな秀吉と三成の出会いは、三成が15歳の時です。
37歳だった秀吉が鷹狩りの休憩で寺に来た時に
お茶を出したのが三成だったのです。
これは有名な話ですね。

三成は1杯目は大きな茶碗にぬるめのお茶を入れ、
2杯目は少し熱めのお茶を半分ほど入れ、
3杯目は少量の熱く入れたお茶を差し出しました。

気が利く三成のことをいたく気に入った秀吉は、
三成を家来に迎えます。

またこの飲みやすく考えられたお茶には効用もありました。
お茶は、温度によって抽出されるものが異なります。

1杯目のぬるいお茶は、テアニンという疲れた体を癒す働きをするものが多く抽出されます。

2杯目の少し熱めのお茶は、カテキンという疲労回復に有効なものが多く抽出されます。

そして3杯目の熱いお茶は、カフェインが多く抽出され、覚醒されます。

お茶の温度の下げ方は、別の茶碗に移すことです。
1回移すと10℃下がると言われています。

おいしいお茶の入れ方

お茶は種類によって高温で入れたり、
少し冷まして入れたりする必要があります。
高温でよいのは、煎茶・ほうじ茶・玄米茶などです。
逆に50℃~60℃程度のお湯がよいのは、玉露などです。
温度が低いお湯で入れる場合は抽出時間を長くとりましょう。

1.急須に茶葉を入れます。

2.まず、ポットからお湯を一度湯のみに移します。

ポットから直接お湯を入れると沸騰して高温になっているので
渋味が出てしまうので気を付けてください。

3.湯のみに移したお湯を急須に注ぎ抽出時間をおいて待ちます。
(煎茶・ほうじ茶の場合30秒、玉露の場合は2分)

4.少しずつ均等に注ぎ、最後の1滴まで出し切ります。

この時、1つめ、2つめ、3つめと
注ぎ入れたら3つめから逆に
3つめ、2つめ、1つめと注ぐことでお茶の濃さを均一にします。



三成は知恵者

三成は秀吉に取り立てられてNo.2にまで出世しますが、
武功ではなく知恵で勝ち取ったものです。

それまでは武功で出世するのが
当然だったので、
秀吉の周りの武力派には気に入らない存在だったでしょう。

ただ戦にも計算は必要なんです。
人数や武器や食料などを
効率よく集めて移動させなければ戦にはなりません。
ただこういう縁の下の力持ち的な仕事って目立たないからやっかいですよね。

もちろん指揮者には十分アピールできるし、
秀吉も買っていたとは思いますが、
「首をとった」とか「城を落とした」という
分かりやすい手柄を他者にアピールしづらいです。

ある年淀川が決壊寸前になったことがあり、
堤防に土嚢をつみますが、土嚢が足りなくなります。

その時に三成は、足りない土嚢に米俵を使います。
そのおかげで淀川の決壊は免れました。
「淀川が決壊した場合の被害」「米俵をダメにすることの損失」を計算しての行動です。

秀吉もそれをよく分かっていて、三成を褒めたといいます。
秀吉も頭の回る人だったから、
三成の計算力と思い切りの良さをよく理解できたのかもしれません。

また賤ケ岳の戦いで、賤ケ岳に夜明けまでに
駆け付けなければならない時に、知恵を授けたのも三成です。

三成は賤ケ岳までの長い距離も、武具を置いて駆けつければ
間に合うと提言します。
戦いに必要な武具は、賤ケ岳近くの長浜城から運べば間に合うと。

そして賤ケ岳までの道のりを松明で照らし、秀吉は軍を
スムーズに賤ケ岳まで移動させることができました。

こういう提言の積み重ねで、秀吉は三成を頼りにして「知恵者」と評価していました。

中間管理職のつらさは腸に出る

三成は関ケ原の戦いに負けて、捕らえられます。
京都で処刑される当日に、三成は「喉が渇いたので湯が欲しい」といいます。
警護の者が「湯はないが、柿を食え」と差し出します。
これに三成は「柿は胆の毒なのでいらない」と答えます。

過敏性腸症候群の人は、柿を食べると
お腹をこわすことがあるといいます。
このことから、三成は過敏性腸症候群だった可能性があるのです。

過敏性腸症候群の原因は今も分かっていませんが、
過剰なストレスが原因ではないかと言われています。
なぜなら中間管理職の人に多い病気だからです。

三成も中間管理職ですね。
上には五大老、下には秀吉恩顧の武闘派武将と
ストレスは大変なものだったでしょう。

秀吉が死んでからは、余計に突き上げがひどくなり、暗殺まで企てられます。
さらに上では家康がやりたい放題を始めます。
そうして三成は亡き秀吉のために
味方を集めて関ケ原の戦いへと動きます。

敗戦し、逃げ落ちる時にも
三成は下痢を起こしていたと記録があります。

どこまでも秀吉の恩に報いようという信念のなせる業ですね。
また、三成は質素に暮らしていました。
関ケ原の戦いの後、徳川軍は三成の城を攻めて財産を探しましたが、
そんなものはありませんでした。
秀吉からの褒美はすべて国のため、秀吉のために使っていたからです。

本当に真面目で秀吉への恩に報いるためだけに自分の才能を注ぎ込んだ人です。
才能高く、強敵だからこそ
徳川家も悪役として記録に残したのでしょう。
それでも三成の治めた佐和山の人達は、三成を慕い続け地蔵を祀っています。

農民には慕われていたのは、
やはり人格者だったからです。
「不作の時は無理に取り立てるのではなく話し合う」と書物にも残っています。

佐和山ではトップだったから、
三成が自分の思うようにできた結果ですね。
三成が国のトップを狙えば、また違った結果になったかもしれません。

それにしても秀吉は、いい人材を取り立てましたね。見る目あります。



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