怨霊となった崇徳上皇

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瀬をはやみ

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保元の乱はなぜ起こったか

【英雄たちの選択】ですが、今回は平安京時代のお話です。
保元の乱って覚えていますでしょうか。
崇徳上皇と後白河天皇の争いです。

この保元の乱を契機に武士の権威が上がり、長く続く武士の世の始まりにもなります。

保元の乱の前、崇徳天皇の父である鳥羽上皇が長らく院政を行っていました。
上皇とは元天皇だった人で、天皇の後見人となるものです。

それまでは、摂関家が仕切っていた宮廷のしきたりなどを全く無視して独裁体制を作ったのが、
上皇が取り仕切る院政です。

院政では上皇の独裁政治なので、気に入られれば重要な役職にも取り立ててもらえます。
しかし、逆に気に入られなければ政治の世界から排除されるのです。

それが、崇徳上皇でした。

ちなみに天皇は儀式などで忙しいのですが、上皇はそれから解放されるのに、実権はあり、荘園がたくさん持てるという特権があるんです。
鳥羽上皇が譲らないのも分かります。

嫌われた崇徳上皇

崇徳上皇は5歳で天皇に即位します。英才教育も受け、百人一首にも選ばれるほど和歌も上手く周りからも期待されていました。

そして23歳で鳥羽上皇の勧めにより上皇となります。息子の重仁が天皇となり、当然崇徳上皇が上皇の地位に就くと思われていました。

しかし、鳥羽上皇の思惑は違いました。
自分の子供である近衛(崇徳天皇の腹違いの弟)を天皇とし、自分が上皇に居座り続けました。

あれ、と思ったあなた。そうです。上皇って一人じゃないんですね。
鳥羽上皇と崇徳上皇。上皇は、天皇の直系でないといけないので名前だけの崇徳上皇。
実権はそのまま鳥羽上皇が握り続けます。
そして、近衛天皇が亡くなった後に天皇となったのは、崇徳上皇の弟である後白河天皇でした。もちろん鳥羽上皇の指図です。

後白河天皇は評判も悪く、天皇に就くとは思われていませんでした。
なぜこんなに鳥羽上皇は崇徳上皇を排除しようとするのでしょうか。

「崇徳上皇の本当の父は、曾祖父の白河法皇である」という噂を鳥羽上皇が信じたからという説もあるようです。


引き裂かれた天皇家と摂関家

そこへ摂関家で左大臣の藤原頼長が近づきます。
彼は日本一の知識人でしたが、宮廷政治を取り戻そうとして敵を作り、政治の中心から弾かれてしまいます。

共通する敵である院政政治に対抗する崇徳上皇と藤原頼長。

院政政治で栄華を極める後白河天皇と藤原忠通。

天皇家と摂関家はこうして2つに分かれます。

これに武士たちは地位向上を夢見ます。自分達の出番ですから手柄を立てれば公家に取って代われるかもしれません。

そして長々と居続けた鳥羽上皇が崩御すると、「崇徳上皇と藤原頼長に謀反の疑いがある」という噂がたちます。これは後白河天皇たちの策略です。

後白河天皇は警備と称して兵を集めます。
ここに、源義朝や平清盛などの有力武将がいます。

いよいよ戦ですか。

英雄たちの選択

崇徳天皇はどちらを選択するのでしょうか。
①戦う意思がないことを示す
②戦って院政のあり方を問う

今回は自分ならどちらを選択するかという意見はありませんでした。
・夢枕獏(作家)
 頼長がいなければ、①だったかもしれない。頼長は天才で崇徳天皇に迫った
・山田雄司(歴史学者)
 自分は死なないと思っていた。貴族は戦を知らない
・萱野稔人(哲学者)
 武力を使用すると、理想とする摂関政治に反すると考えた
 
磯田さんは面白いことをいいます。
過去の「〇〇すべき」に戻そうとすると失敗するというのです。
頭のいい人が陥る手法だそうです。
今回も過去の「摂関政治に戻すべき」ですよね。

崇徳上皇の決断

崇徳上皇は②を選択し、保元の乱が起こります。

崇徳上皇側についた武士は強い人はいませんでしたが、源為朝が夜討ちして火をかけようと斬新な提案をします。これに乗っていれば勝てていたかもしれません。

しかし、頼長は頭の良すぎる貴族だったので、作法に則っていないし貴重な建物に火をかけるのはよくないと止めました。

その結果、逆に後白河天皇側が夜明けに奇襲をかけ、崇徳上皇側へ火をかけたので、4時間ほどで崇徳上皇の負けが決定します。
負けた崇徳上皇側についた武士は死刑となり、350年ぶりの死刑が執行されます。

もちろん崇徳上皇自身も流罪となり、讃岐(香川県)へ流されます。
ここから武士の世が始まるんですね。

崇徳上皇は46歳まで讃岐で過ごし、亡くなります。
自殺とも暗殺とも言われていますが、はっきりしたことは分かりません。

日本最大の怨霊

怨霊として有名な人は、平将門、菅原道真、崇徳上皇たちがいます。
しかし、崇徳上皇が最大の怨霊と言われるのは、崇徳上皇が何かをしたわけではありません。
やはり一番身分が高かったからではないでしょうか。

崇徳上皇が流罪となった後、天変地異が続き、後白河天皇の周りにも病に倒れる人が出てます。
そこで崇徳上皇の復興を願う人々が、「崇徳上皇の祟り」だと言い出したのです。

人々が崇徳上皇を最大の怨霊としたのです。
「あんなに高貴で立派な人がこんなつらい思いをしたから、こんな怨霊になった」と話は膨らみ、最大の怨霊にまで育ったのでしょう。

そして明治まで最大の怨霊と信じられています。
明治天皇が崇徳上皇の怨念を鎮めるために京都に白峯神宮を建てました。讃岐にあった御霊を10日間かけて京都に運んだといいます。

なんだか日本っぽいですね。
日本人は目に見えないものをいろいろ信じています。たくさんの神や霊魂、妖怪とか。
疫病が流行っては、誰々の怨霊だと畏れます。
そしてかわいそうな仕打ちにあった偉大な人を崇めたのだと思います。

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