忠臣蔵|まっすぐすぎる殿様と忠義の赤穂浪士

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忠臣蔵といえば、年末の時代劇で有名ですね。
江戸時代の忠義者が主君の敵を取ったお話です。

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事件の発端

まず事件の発端は、赤穂藩主の浅野内匠頭が
江戸城の松の廊下で、吉良上野介義央を切りつけたことです。
吉良さんの傷は深かったけれど
医師がすぐに駆け付け手当ができたので一命を取り留めています。

さて浅野の殿様がキレて
抜いてはいけない刀を江戸城内で抜き、
吉良さんに切りつけたのは、陰湿ないじめが原因とされています。

また江戸時代の人が芝居にするために
大げさに作ったのだろうと思っていました。
でも意外と寺坂私記や岡本元朝日記など、
畳表替えなどのいじめが記された書物も残っています。

まあ、いじめの程度はわかりませんが
いじめていたの(パワハラ)は事実でしょう。

それも勅使饗応役の費用を
浅野さんが700両しか出さなかったためといわれています。
(説はいろいろあります)

浅野さんの勅使饗応役は2回目なので
段取り等はだいたいわかっていたはずですが、
費用は物価が上がり1200両になっていたようなのです。
ただ、2月の月番高家に確認した際は
700両でOKをもらっていたという話もあります。

それが3月の月番高家の吉良さんに確認したら
ダメと言われたようなんです。

大切な儀式のその日は、綱吉の母が帝から位をもらえる日でした。
特に綱吉はマザコンでしたから、
実母に女性の最高位の従一位をもらえる大事な日です。
失敗できないこの儀式にお金は十分にかけたかった。

その意向を吉良さんもわかっていたと思います。
そしてプラス、自分へのお礼も少なすぎたと思ったのでしょう。
指南したのだから
お礼はもっとはずむべきだと思ったのかもしれません。

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まっすぐすぎる浅野の殿様

まあ吉良さんはちょっと意地悪だったようで
浅野さん以外にも意地悪はしていたようですよ。
(他の人は耐えたんですね)

吉良さんは、名家ですし、浅野さんより位も上です。
賄賂も当たり前という風潮の中
逆に浅野さんが空気を読まず、清くあったのかもしれません。

浅野さんは本当にまじめな方だったようです。
9歳という若さで家督を継いで、奥さんだけを愛して
倹約して真面目にやってきた殿様でした。

浅野さんが勅使饗応役となったのは2度目で、
1度目はやはり指南役は吉良さんでしたが無事お役目を果たしています。
その後も、火消し大名に任命されたり、桜田門御番など
いろいろとお仕事を任されては、こなしてました。

子供が生まれなかったので弟を仮養子にしていました。
疱瘡にかかって危篤になることもありましたが
回復したので、実際に家督を継がせることはありませんでした。
でも、ちゃんと自分のいなくなった後のことも冷静に考えられる人でした。

ただ「つかえ」という持病がありました。
心因性の神経症といわれています。
病気の悪化で理性を保てなかったのかもしれませんね。

まあ、人の地雷はどこにあるかわかりません。
パワハラ上司(専務)が部下(課長)の地雷を知っているはずもなく
まんまと踏みつけてキレられたということです。
最後の地雷を踏んだ悪口はなんと言ったのでしょうか。

よもやおとなしい浅野さんに切りつけられるとは
吉良さんも思っていなかったでしょう。
真面目な人ほどキレると怖いのですよ。

母が大事な位に就く大事な日に事件が起きたのですから
綱吉も頭にきて、即日切腹にしたのでしょう。
言い訳も聞かずに即日切腹させたので
結局なんで浅野の殿様が切れたのかは不明のままです。

一応、家臣への言伝はありましたが
これがぼんやりとして真実が見えません。

「このことは予め知らせておくべきだったが
今日やむを得ざる事情で知らせることができなかった。
不審に思うだろう」

浅野の殿様も、取り調べに対して
切りつけたことは認めたけれど理由は話しませんでした。

これで、「気が触れた」と嘘でも言っておけば
家が取り潰されることもなかったでしょうが
「自分は正気だ」というので
仕方なく切腹+浅野家お取り潰しという流れになりました。

これで家臣は浪人となり路頭に迷うことになります。
嘘のつけないまっすぐな人っていますよね。
でもここは、家臣のためにも浅野家のためにも
嘘ついても良かったんじゃなかろうか。。。

浅野の殿様を切腹させる場所も、預け先の家の庭先で
装束や刀もきちんとしたものではありませんでした。
身分からすると相応しい最期とはいえません。

そんな殿様の死を大石内蔵助が知ったのは、
切腹から5日も後のことでした。

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幕府の判断

そんな浅野の殿様への仕打ちとは違って
吉良さんへは何もお咎めなしでした。

そして赤穂浪士が討ち入るという噂が流れる中、
吉良さんのお屋敷を街はずれの方へ引っ越しさせています。
まるで、吉良さんを赤穂浪士へ差し出しているようです。
普通、そんな噂があれば厳しく詮索するなり
吉良邸をがっちり警護しますよね。

今では両国も栄えていますが、
当時は江戸城からも遠く、上杉の家からも遠かったのです。
人気のない郊外へ移すなんて
吉良さんが邪魔になったのでしょうか。

大石内蔵助は、まず浅野家の再興を考えます。
浅野の殿様の弟を主君として、浅野家を存続させたかったのです。
さすができる男・ナンバー2ですね。
しかし、願いは叶いませんでした。

そこで、忠臣としては「主君の願いを叶えよう!」となるのです。

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赤穂浪士の仇討の目的

浅野の殿様は腹を切る前に辞世の句を詠んでいます。

<辞世の句>
風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん

これは、風に吹かれて散る花よりも急いて、
(散ろうとしている)私は
この春の心残りをどうしたらいいのだろうか。
 
上野介を討ち果たせずに散っていく自分のほうが
はるかに無念だ
という意味ですね。

この句の為に、赤穂浪士は動くのです。
12月14日、吉良邸に討ち入ります。
吉良の首を取った浪士たちは、浅野の殿様の墓(泉岳寺)までやってきます。

そして殿様に向かって、吉良殿を連れてきましたと報告します。
短刀を墓石側に置き、吉良さんの首に3回当てたのです。
これを浪士たち全員が行いました。

これはつまり、浅野の殿様が吉良さんを討ち果たす手伝いをしたのです。
松の廊下での刃傷沙汰では、邪魔が入って
討ち果たすことができませんでしたからね。

本当にまっすぐな主君を持つと、忠義者の家臣も大変です。
しかし、江戸の庶民は赤穂浪士の忠義心を称え
歌舞伎や人形浄瑠璃などのお芝居で伝えていきます。

お芝居の中では完全に吉良さん悪役の、浅野さん正義です。
いじめられた弱者が牙をむき
強者をこらしめたという日本人の好きな勧善懲悪スタイルですね。

綱吉も討ち入りに関しては忠義であると褒めています。
討ち入り直後は、幕府も庶民も
赤穂浪士をヒーローのように称えていました。

浪士たちを預かっていた細川家でも、たいそうもてなしたそうです。
なんと幕府へ助命をお願いしたりもしてる力の入れよう。

それでも浪士たちは全員切腹となりますが、
浪士たちも切腹は想定内であり、本懐はすでに遂げていることから、
思い残すことのない武士の最期でした。



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